巨椋神社~朱雀の住む巨椋池~

京都帰郷レポまさかの4回目w

京都から宇治ときて
今回はさらに地元感満載ですw

時代祭りに先立って地元の宇治市を自転車で散策したのですが
立ち寄ったのが巨椋神社です。宇治市小倉町にあります。

小さな神社ですが巨椋神社の巨椋とは
かつてこの付近にあった巨椋池という湖の事です。

この巨椋池は周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートルで、
当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖でした。
琵琶湖の半分ほどの大きさを誇る湖が
しかも京都にあったなんてどれほどの人が知っているのか?w

昔から大坂と京都とを結ぶ要衝の地であり
水上交通の中継地として重要視され、
多様な動植物の生息地として、
豊かな環境を育み多くの人に恩恵を与えてきました。
鴨の群れが多く狩猟場として利用されたり、
豊富な漁獲量を誇り漁業も盛んでした。
蓮も多く自生し古来から蓮見が盛んに行われ観光地としても有名でした。

Ogura Ike (1930)
1930年頃の巨椋池

そして何より平安京の四神相応の朱雀のいる湖とされていました。

朱雀とは伝説上の神獣(神鳥)で
鳳凰、不死鳥、フェニックス、インド神話に登場するガルーダ等と
同一起源とする説もあります。
前回紹介した平等院鳳凰堂を始め、
宇治川上流に作られた天ヶ瀬ダムのダム湖が鳳凰湖と呼ばれたり
何かと宇治と朱雀は因果があるようです。

さて、これほど重要な湖ですが今は存在しません。

巨椋池消失の歴史をたどると桃山時代まで遡ります。
豊臣秀吉が生涯の居城として伏見城を建てる際に
土木工事などにより巨椋池は4つに分割されます。
河川の流れなども人為的に大きく変えられました。

この事が多くの水害をもたらすことになります。
低地にある巨椋池は度々洪水を引き起こし
水質悪化により漁獲量が減少したり、
マラリアが発生したりする問題が生じました。
春から夏にかけて蚊が大量発生し、
付近住民は蚊燻をたかなければ夕食の箸を取ることさえできなかったそうです。
地元の働きかけもあり、
国の食糧増産事業として国営第1号の干拓事業が実施されることになり
最終的に1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われた
干拓事業によって消滅し、今は住宅地と農地が広がっています。

JR奈良線の桃山駅 – 新田駅の間で大きく東に迂回しているのは
まさに巨椋池を避けるようにした結果なのです。
小倉町を北に進むと槇島町、向島町に続きますが、
この地名はそこに巨椋池の中の島があった事に由来しています。

巨椋池干拓事業は戦前戦中で唯一の施工式が執り行われました。
全国的にはあまり知られていない巨椋池ですが、
小学校時代の地理で必ず教えられましたし、
巨椋神社の近くにある巨椋池土地改良区事務所にも見学に一度訪れました。
というよりこの施工式が行われたのが通っていた小学校でしたw
(完全に出身校確定されますネw蛇口からお茶出る学校です)

宇治市の由来ですがウサギの道莵道)と共に
北、東、南を山に囲まれ、
西は巨椋池にふさがれていた事で、これらの内にある事から、
「うち」と呼ばれたものが
「うじ」と呼ぶようになったという説もあるようです。

不思議な事に巨椋池の縮小と平安京の衰退は比例します。
明治維新によって皇室は東京へ移動。
大正や昭和前期は即位の礼などの皇室の重要行事が行われ
存在感があった京都も
今上陛下即位の礼は東京で執り行われ、
首都機能は徐々に東京に移ってしまいます。

巨椋池の消失によって平安京の呪術的防壁が崩れ宇治も内でなくなり
宇治橋を経由しなくても陸路で直接京都に行くことができます。

巨椋池周囲の京都府伏見区は
伏見稲荷神社や伏見桃山城(レプリカ)、明治天皇陵
宇治市の宇治橋周辺は平等院など見るところはありますが
巨椋池跡は住宅地と田んぼが広がっているのみで
観光として行くようなところはないです。(;^ω^)

ただ、伏見の京都競馬場の中央にある池は巨椋池の名残と言われていたり
干拓地内の第二京阪道路のインターチェンジに
「巨椋池インターチェンジ」の名が残されていたりします。

平安京と平城京の間に有り、
平安京の南の守りでありつつも独自の文化を育んだ宇治。
このような歴史も踏まえ宇治を歩くと
観光もより面白いものになるのじゃないでしょうか?

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